今夜、暇を取らせていただきます

文化的ニート(令和版)

写真が好きな話、それ以上に撮る側が好きな話

一眼レフやフィルムカメラで撮られたであろう写真がこのうえなく好きで、インスタグラムによく上げている先輩や同輩の投稿は、くまなくチェックしている。

 


ありきたりなことを言ってしまうのが癪だけれど、同じ写真を二度と撮ることは相当困難だ。同じような太陽はなく、同じように風など吹かず、また写真家自体、昨日今日明日と同じ状態でいられるか、と問われれば答は否だろう。

 


タイトルにもある通り、僕は写真家自体がこよなく好きだ。

彼らはどんな世界で生きているのだろう、と考える事がある。きっと僕と一見変わらない世界で生きているのだろうが、彼らが生きる世界、つまりカメラを手にしている時の彼らの眼光が照らす世界というのは、本質的、実質的、物質的な観点を超えた、ある一瞬の世界なのだろう。

 


僕がこよなく好きな写真家2人、それは僕の高校の同輩と先輩であるのだが、彼らはまるで世界が違う。

1人、先輩の写真は、動的な世界が煌めくその一瞬を捉えていることが多い。蝶はただそこに留まっているのでなく、留まるべくしてそこに留まっていると思えるほどの絶妙な彩度がそこにある。まるで詩だ。小説の写真など、非常に心を打たれる。

一方、同輩の写真は、極めて静的だ。生き物さえ存在するが、その生き物はもともと静止していたのではないかと思わせるほどの写真。簡単に言えば、何処かで見た、懐かしい写真。建物、駅、喫茶店、そして友達。これは僕が過去を静的に振り返っている癖によって思い出される事なのかもしれないが、僕以外にもそんな人がいるだろう。

 


本人たちの写真を見て衝動的に書いて、ろくに見直しもせずに書いた文章なので、支離滅裂なのは申し訳ないが、彼らの写真は、本当にナニカを惹きつける。それだけは伝えたい。

 


僕は写真家の顔が見える写真(なんか野菜みたいに言うけど)が大好きだ。

どんなものに感激して、どこをとらえて、いつを狙ったのか、それだけ汲みとれる写真は、本当に見所があるなと思う。勿論、写真の種類、また映像などになるとその観点も変わってくるわけだが、僕の単純な好みとして、そういうのが好きなんだなと実感できた。

 


ぜひもう一回ぐらい喋ってみたいな、と思う。

これが本人たちに届いていたら幸いである。

僕も写真を撮りたくなった。他人をそう思わせるなんて、なんという才だろう。どんな著名な写真家よりも才が溢れている。