今夜、暇を取らせていただきます

文化的ニート(令和版)

「詩の解説がほしい」

 日本語というのはすんごく難しい言語で、母国語として使っているぼくたちでさえ、「ここが間違っている」とか、「ここはこの状況にそぐわない」と指摘されることは多い。現在のTwitterのタイムラインでも、悪い言い方をすれば揚げ足取りのような、そんな風潮が介在していることが容易に分かると思う。


 日本語は、昔であればあるほど、それを用いた芸術性が高ければ高いほど、むずかしくなる。読み方も、感じ方も、受け取り方も、全部そうだ。古典作品や純文学、評論と詩などがこれに当たると思う。難しい、理解できないというものから、頭に刷り込めるようになるまで、時間も労力も凄まじい量が必要になる。そりゃ、みんな、読んだりしなくなる。至極当然だね。

 

 僕はRainy Worksという写真詩ユニットで、ただひたすらに詩を生むという担当だ。

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 第一弾の公開が終わり、自分が想像するより多くの人に見ていただいた。意見、感想も多くいただき、感謝の念でいっぱいである。それと同時に、Rainy Worksの詩と写真に一番よく言われた意見は、「詩の解説がほしい」だった。

 

 正直な話、「詩」という誰かの感情の産物を、すべて理解することは非常に難しい、というかほぼ無理なのだ。
 だけど、「ああ、なんとなくこういうリズムがいいよね」「こういう言葉って綺麗だよね」「こういう感情、抱いてみたい」と部分部分を読んで感じることはできる。
 谷川俊太郎最果タヒ寺山修司…数々の偉大な詩人の文章を読んだあとに、それらを完全に理解したことなんて、一度も無い。

 


 でも、なんかいい。読んだあとに不思議な心地になる。膨大な時間と精神を使って、その詩人の情景を追体験することで、自分の心がふわふわしているような、それでも何処かに棘を持っているような、そのような心地になるのだ。


 そこが小説との違いだと思う。明確化されていない感情を語るなら、小説よりも詩の方が雄弁だ。

 

 僕から語ることができる詩の解説、というか読み方というのはこれくらいだと思う。というか上に書いた文章もあるライバルからの受け売りなんだけど。

 

 Rainy Worksが目指している部分というのはまさにそこで、明確化されていない感情、つまりはもどかしさを求めて作品を作っている。自分という感情を差し置いて、何処までも作品第一主義で僕らは動いている。すべては皆の、「なんか、良い」のため。

 

 言葉は生き物だから、受け取り手によって見せる顔も変わる。だから、僕から、自分の作った詩について語ることはしない。作者による解釈の限定は、それはそれは非常に強い拘束力を持つことを僕は知っている。それが上手く転ぶこともあるし、よくない形に転ぶこともある。

 できれば、読者には自由に、気軽に読んで欲しい。感情移入し、自分と詩が共通して持つ情景を頭に浮かべ、自分の気に入った解釈を持って欲しい。写真も詩も、それを意図してこれからも作っていくつもりだ。

 

 詩は面白い。決して難しいなんて思わないで、絶対に理解しなきゃいけないなんて思わないで。「なんか、いい」。これでいいんだ、そう思うよ。