今夜、暇を取らせていただきます

文化的ニート(令和版)

【考える】「海を持つ」(海について考えてみる)

 2019年6月7日の夜遅く、友達とへべれけになっていたのだけれど、「ちょっと外に出ないか」と言われて、亀川というところの港に行った。
 かなり酔っていて、3人以上の場ではとてもじゃないけど話せないことも話したりしながら、ぼくはカルピスを、彼はシークワーサーのジュースを片手に向かった。
 荒廃したように見える工場、いつかのどこかのヤンキーがペイントしてそのままになっている薄暗いトンネルを横目に歩いていき、やっと港に着いたと思えば、彼はずんずんと進んで、防潮堤の上を歩いて今は使われていない灯台へ向かった。
 甚平にYシャツを羽織るという何を主張したいのかわからないファッションでぼくは彼について行った。

 

 そこで見た景色を、もう二度と見ることはない。いくら気候が似ている日がこの地にまた現れても、無理があると思う。iPhoneで写真を撮っても、6sだから写真が綺麗に撮れない。
 形容が下手だから詳しく説明はしない。ときには言語化しない方が綺麗に残る場合もある。
 大きくて飲み込まれそうだった。雲も海も山も。人を敵として見られているのではなく、そういう概念すら超越して「ただそこにいる」感じだった。

 

 「この海、すげえ好きなんよね」と彼が言った。
 「この海、」
 「実家の海はすげえ波がうるさいんよ、あれ、東映みたいな感じ」
 「相当うるさいやろなぁ」と笑うと、彼はジュースを一口飲んだ。
 「こんなに静かな海は知らんけ」
 「俺は実家が広島やから、瀬戸内海ってこんな感じやし、俺の海のイメージはこんな感じよ」
 ああそうかあ、と言うと、彼はまたジュースを口にした。


 海。
 勿論、海は世界に一つしかない。世界の何処に行こうが、二つめの海を見ることはない。
 それでも、ぼくたちは固有の「海」を持っている。不思議だと、思わない?

 ぼくは最近、自分のアパートの近くに砂浜があることに気付いた。休日は基本家から出ない生活だったから、何も知らなかったなあと思う。
 その海もすごく綺麗だ。特に夜は、何らかの理由があるのか、結構一人で来る人がいる。自分も含めて。
 
 「海によっていのちが生かされ殺されしても尚、人は海を愛し続けている。自分の悩み恨み辛みを飲み込んでもらおうとしているのかもしれない。海にキャパシティなんてない。いつまでも、何でも、聞いてくれる。ただ、返答はしない。そのはずなのに、海を立ち去るときには、何かしらをまっさらにしていける。人って本当は、悩みを自問自答だけでどうにか解消できるのかもしれないな」

 そんなことを考えながら、セブンイレブンで買ったサイダーを砂浜に体育座りで飲んでいる。気づけば海を睨んでいた。
 
 閑話休題
 最近、アカキャン終わりぐらいから、簡単に話せるものを難しく語ってしまう癖みたいなのができた。アカキャン許さない。
 それにしたって、不思議なんです。海って一つしか無いのに、「沖縄の海」と言うこと。不思議というか、違和感ですね。
 心底自分は海が好きなんだなと思います。良ければ地元の海とか、好きなところの海がどんな感じか教えてください。コメントでも何でも良いので、待ってます。